若者の街”原宿”は、なぜ若者に支持され続けるのか??
Z世代をを研究するinnovation team dot(以下 dot)。Z世代たちが、本心から自由に学び楽しむことを目標に、学生団体からスタートしました。現在では学生団体を運営を続けつつ、株式会社としても活動しています。 Z世代と深い関係にあるdotがオフィスを構えるのは、グ全にも若者の街“原宿“。
日本初進出となるとなる飲食店やファッション店が多く、国内のオシャレなお店も多く集結しています。テレビやYou Tube、雑誌がこぞってとりあげ、流行が途切れることはありません。週末に限らずほとんど毎日、若者や観光客、海外からの旅行者でにぎわい中心地・竹下通りは、歩くのすら難しいほどの混雑っぷり。なぜ原宿はこんなにも若者をはじめ国内外を問わず、多くの人を魅了する街となったのでしょうか?
■“若者の街“ルーツは代々木公園に
原宿の歴史をたどるためには、第二次世界大戦終結直後まで時代をさかのぼる必要があります。第二次世界に敗戦した日本は、GHQ指導の下アメリカの占領下におかれます。国有地に基地や住宅などアメリカ軍の関連施設が建設され、多くのアメリカ軍関係者や家族が日本に移住してきました。いくつのかの施設、特に基地関係は今なお現存しており、沖縄の普天間飛行場など米軍基地は代表的な例といえるでしょう。原宿も例外ではなく、明治神宮御苑に隣接する代々木公園はアメリカ軍人向け宿舎「ワシントンハウス」が建てられ、アメリカ人が多く生活する街でした。
原宿周辺は終戦以前は緑があふれ、地下に埋まる前の渋谷川が流れる静かな街だったそう。1950∼60年代前半までの原宿の風景も同様で、アメリカ人家族が散歩する光景もあわさり、欧米風の高貴な、まさに閑静な街だったといわれています。またアメリカ人が生活することから、彼らをターゲットにした店舗が開店。玩具店「キディランド」・雑貨店「オリエンタルバザー」、日本初のスーパーマーケット「紀ノ国屋」など、海外の文化も流入、原宿という土地に定着していきました。
1960年代には、オリンピックの影響が広がり始め、日本全国に米式文化が浸透。海外のファッションや空気を求めて、若者が原宿に、特に深夜集まり始めます。のちに「原宿族」と呼ばれるこの集団。中心は裕福な家庭の若者で深夜に親の外国車を乗り回す、“欧米風”を誤解したままエスカレートさせたような、破天荒集団でした。現在の“パリピ”のようなのものでしょうか??
女性誌が次々と創刊 原宿=オシャレの誕生
その後1970年代に訪れた高度経済成長から、国民の暮らしにゆとりが発生。アメリカの女性解放運動など海外文化もより周知され、女性の価値観が大きく変化しました。それらの影響は、「アンアン」や「non-no」と今でも知られる女性ファッション誌誕生の一助にもなった、といわれています。
誕生したそれぞれのファッション誌が「東京で外国ファッションが集まるエリア」として原宿を紹介。雑誌の特集によって、“原宿=オシャレ”というイメージが確固たるものとなり、さらに多くの若者がまちに押し寄せるようになったのです。これまでの日本にない“トレンド”という概念が生まれた瞬間なのかもしれません。
■落ち着いた表参道・カワイイ竹下通り
1978年にはラフォーレ原宿がオープン。“オシャレの街”原宿のマンションを、自室兼オフィスとする個人デザイナ—のファッションブランドを積極的に販売していきました。洗練され、流行の半歩先をいくデザインは大学生や社会人にヒットし、※DCブランドブームが始まります。DCブランドの服は黒を効果的に用いることが多く、これまでの日本のファッションとはかけ離れた姿に「カラス族」と呼ばれていました。“コム・デ・ギャルソン”・“ヨウジヤマモト”など今でも根強い人気を誇るブランドのルーツは、この時代にあります。やがてラフォーレ原宿を軸に、大学生・社会人は表参道方面へ移動。現在の大人びたオシャレな雰囲気の街が生まれるキッカケとなっていきます。
(※DCブランド=「デザイナーズ(Designer's) & キャラクターズ(Character's)ブランド」の略)
一方、原宿駅目の前の竹下通りでは「竹の子族」と呼ばれる団が活動の幅を広げていました。一日中、歩行者天国でラジカセを担ぎ踊り続けていた「竹の子族」。ブティック竹の子というお店のゴージャスな雰囲気の服を身に着けていたことが由来とされています。特徴的な服装は、まるで童話の中のような独特で魅力的なシルエット。派手な色使いも相まって、中学・高校生を中心に大ヒットしました。そのため竹下通り周辺には中学・高校生をターゲットとしたお店が増えていったのです。
このように、大学生・社会人は表参道方面へ、中学・高校生は竹下通りへと、それぞれ移動。しかしそれらは歩いて10分もあれば行き来できる距離でもあり、結果的に原宿は10代後半から20代の若者が広く訪れる街となったのです。
■若者が流行をつくるのか?流行が若者を呼び寄せるのか?
90年代を経て2000年に入ると、海外へ日本の情報が広く発信され、「原宿=日本の流行が集まるで最先端の土地」として知られていきます。2010年代、”きゃりーぱみゅぱみゅ”の活躍で爆発的話題となった、”Kawaii”という概念は最たる例の一つ。アグリル・ラヴィーンがMVの参考にし、現在では世界で通用する日本語となりました。そのため海外では、日本の原宿でウケた=最先端をの一流企業、というブランディングが確立。アパレルブランドやスイーツショップなどがこぞって、日本一号店を原宿に出店するようになったのです。
若者が集まるため海外ショップが日本初上陸し、その話題に若者が集まり流行が生まれ、流行にのった国内外の企業がさらに若者を呼び寄せる……まるで流行と若者イタチごっこのよう。
しかし始まりは外国関連の施設があったから、ということ、原宿を爆発的に押し上げた“外国を感じられる街”というキャッチコピーが再び帰ってきたこと、それらを思い出すと切っても切れない海外との不思議な縁に、しみじみとしてしまいます。
現代の若者たちはどのようなときに、原宿を訪れるのでしょうか??
・行きたいお店があると行く気がする。若者になじみのあるお店や、裏原宿・表参道にもいけるから何度も赴いちゃう(23歳・女性)
・服を買いに行くことが多いかな。若者ファッションは原宿や表参道が最先端だと思ってるから。空気感も好きだし、用事がなくても歩いてた(22歳・男性)
・基本的に人混みが好きじゃないけど、東京にきたばかりのときは友達とよく行ってた。田舎で暮らしていたとき、テレビで取り上げられていたし、新しいものがどんどん輸入されているイメージがあったから。(22歳・女性)
若者が原宿を訪れる理由はさまざま。しかしこれからも原宿は、”流行の最先端・若者のまち”として進化しつづけていくのでしょう。